豊臣秀吉ゆかりの 舟廊下を渡り宝厳寺から竹生島神社へ
どこが境界かわかりません。というか、もともとはひとつの施設(神仏習合)だったものが明治時代に分離させられてしまったため、名称はあくまでも区分上のものですね。
まったく・・・明治政府もややこしいことをしたもんだわ(150年目の節目にひとりごと)
豊臣秀吉ゆかりの社殿 「国宝 都久夫須磨神社本殿」
唐門、舟廊下に続き、こちらも豊臣秀吉の栄華の痕跡と伝わるものです。
祭神は、市杵島比命(いちきしまひめのみこと)。開運厄除、陸海の交通安全にご利益があります。神仏習合の時代には弁才天と同一神とされ、かつては弁才天像もここに安置されていました。(現在、弁才天は宝厳寺に)
社殿内部は見ることができませんが、豪華なつくりは秀吉の寄進といわれています。
この竹生島は、豊臣秀吉がはじめて城持ち大名となった長浜からほど近いこともあり、秀吉が厚く信仰していたことが想像できます。
その一方で、大阪や京都から秀吉の威光を消そうとする徳川家康による力が働いていたという話も。大坂の陣の後、大坂城はあとかたもなく破壊され、城の遺構を埋めた上に”徳川”大坂城が建てられたのは知られた話です。京都に造られた秀吉の墓所・豊国廟も壊されましたが、その遺構をここに移築させたのは家康のさりげないやさしさ?(徳川贔屓での勝手な感想ですが・・・)
まあ、一歩間違えば東照宮だって明治政府により破壊されていたかもしれませんね。
竹生島神社の御朱印はまさかの”セルフサービス”
龍神拝所(神社受付)
本殿に背を向けて海の方向にある建物です。
かわらけ投げの対応をしているところで神職の方に伺うと、「あちらです」と言われた先(カウンターの反対側)は無人。
とりあえず行ってみましたがそこにあったのは、スタンプ台とカンタンな説明書き。
要するにセルフサービス(さすがに写真は撮れませんでした・・・)
これを押していいものか、としばらく考えましたが押してみました。
う~ん、なんか違う。日付は?私の筆で御朱印帳に書くのも気が引けるし・・・
せめて”奉拝”の文字と、スタンプでもいいから日付くらいは神職の方に手をかけていただきたかったです。
時間的にも混雑しておらず、2名いらっしゃったので作業的には可能であったように思いますが、素っ気なく「あちらです」と言われたので、小心者?の私はそれ以上お願いすることもできませんでした。
昨今の御朱印ブームの中、一部では御朱印を転売するなどマナーが欠如している人もいるのも事実で、こういうことに対する苦肉の策なのかもしれませんが・・・残念です。
ちなみにこの対応は今年8月中旬からとのこと。当初7月下旬に竹生島を訪れる予定でしたが、台風の影響で断念した経緯があります。予定通り来られれば御朱印をいただけたと思うと悔やまれますが、これもご縁とあきらめるしかありません。
竹生島名物 「厄除 かわらけ投げ」をしてみる
御朱印代として用意していた300円でかわらけ投げをすることにしました。本当はこういう俗っぽいものが好きではないのですが・・・
「厄除」の文字が入った素焼きの小さな(直径5~6センチ)お皿が2枚もらえます
このうち1枚に名前。もう1枚にお願い事(「商売繁盛」「交通安全」など4文字の例が机に提示してあります)を筆で書きます。
海に面した鳥居に向かって、名前→お願い事の順で投げます。
鳥居をくぐれば成就するといわれています。
が、どこまで飛んだかって? 写真下端の木の枝のあたりにひらひらと舞い落ちました。
思ったより軽くて飛ばないんですよ~ というより運動神経なさすぎっ。
御朱印はもらえないし、かわらけは飛ばないし、なんだかテンション下がりっぱなしで神社を後にすることになってしまいました(T_T)
黒龍神社
行きに宝厳寺と竹生島神社の分岐があったところに出ます。
神社からお参りしたい方は、拝観券の券売所から少し階段を上って右折するとここに来ます。(こちらからまわるほうが階段は楽だと思います)
”期間限定”工事中の看板
今年度(2019年3月末)には工事が終了してピカピカの唐門がみられると思います。
帰りの船までは10分ほど余裕がありましたが、かなり急ぎ足でしたし、工事中で見られないところもありました。やはり90分は必要という感じがします。
ちょっとおみやげ物でも・・・と桟橋の商店街?に行ってみると、早っ、半分以上閉まってました。
帰りの船は15:50発でしたが、おみやげが欲しい場合は先に買う必要がありますね。
帰りももちろん直政号(本名は「わかあゆ」でした)
曇り空でしたが、参拝中に雨に降られることもなく竹生島を後にしました。
次に訪ねるのは、西国三十三所めぐりをやる時かな・・・
この後は、彦根城の宿泊先のホテルに向かいました。