ぎふ恵那大河ドラマ館を見学後は、明智町内の光秀ゆかりの地散策です。
過去に3~4回、”大正村”を目的に何度か訪れたことはありましたが、明智光秀と関係のある町名だったとは全然気にもとめていませんでした(>_<)
まあ、そもそも町自体が「明智推し」より「大正推し」でしたから(笑)
今回たどってみると、ここにこんなに史跡があったのかと驚くばかりでした~
光秀公産湯の井戸
いきなり”車移動必須”のスポット。
街の中心から2kmほどの山の上にあります。
道中すれ違う車もなく、ちょっと不安になっていたところ、目的地に到着すると車が数十台。えっ、みんな城跡観光?と思ったら、運動公園があり地元の少年たちの野球大会やってました(^^;) 駐車場は地元ナンバーでほぼいっぱい。
トイレも完備されています。
どうやら観光客らしい人は見当たりませんでしたが、(軽自動車の後ろあたりに)看板があるのですぐわかります。
明智光秀は、1528年にこのすぐ近くにある落合砦(土岐明智城)で生まれたという伝承があるそうで、この井戸の水を産湯に使ったとも・・・
※過去記事でも触れていますが、岐阜県内だけでも4~5か所出生地伝説があります
井戸の形はあるものの、水はあるのかないのか謎。草ボーボーで見えないし・・・
ところが!私が訪れた日(豪雨の翌日でした)から数日後に何十年かぶりに肉眼で水が確認できるほどに水位が上がったというニュースがありました。
記念イヤーの奇跡!?
落合砦(土岐明智城)
産湯の井戸の脇にある坂を上った先にあるのが落合砦
幟旗が立ち、なんとか道を作ってあるという感じ。誰もいません(泣)
もともと2つの曲輪(くるわ)があったそうですが、遺構はあまり残っていないようです。
小さな祠と展望台があるのみ。
あまりに人がいなすぎて、主郭までは行きませんでしたが、体力に余裕のある方はぜひ。
看板もしっかり作られています。
この明智町内は従来から観光に力を入れているだけあって、町歩きするには案内がしっかりしていて助かります。
明知城(白鷹城)
大正ロマン館の横から続く登り口があったので勢いで登ってしまいました。
明知城はこの地域を治めていた遠山家の一門である明知遠山氏の居城で、別名・白鷹城。
麓の大正ロマン館や街並みには観光客もそこそこいましたが、城跡には誰も来ません(泣)
10分ほど登ると東屋などがある場所にたどり着くのですが、本丸への道がよくわかりません。
反対側に道があったようですが、そちらも前日の大雨の影響でぬかるみが多いため断念。
明知城の特徴は、山腹をほぼ一周する横堀とそれに連動する畝状竪堀群
畑の畝(うね)のように複数の竪堀が連なり、19本が発見されています。
1本だけの写真ではわかりにくいのですが・・・
それ以外にも「武者走り」や「貯水池」といった表記もあり山城としての遺構がよく残っていると思われます。
私が山城についての知識不足なためこれを理解できてないだけなのですが、山城に詳しい方であれば、珍しい遺構も多く楽しめるのではないかと思います。
大正ロマン館から往復で30分ほどで行くことができます。
明智光秀公霊廟(供養塔)
大正ロマン館から徒歩5分ほどの龍護寺にあります。
明知遠山氏である遠山利景が1596年に建立した臨済宗妙心寺派のお寺。代々の遠山氏のお墓があります。
山門の手前に明智光秀供養塔があります。
明智光秀の「悲痛な思い」により墓石がことごとく割れるという通説があるそうです。ご霊廟内の供養塔は毎年5月3日に行われる「光秀まつり」で公開されるそうです。
このお寺は、明智光秀だけでなく、あの有名なお方にも関わりがあります。
”遠山の金さん”でおなじみの遠山金四郎(遠山景元)はこの一族なのです。
今回は足を運びきれませんでしたが、明智光秀が若かりし頃学んだという「学問所」や光秀の母で非業の死を遂げた於牧(おまき)の方の墓所も点在しています。
公式サイト(下記参照)より引用
明智町は、コンパクトな町ですが、”大正村”のみどころとあわせると1日では足りないかもしれません。テーマを決めて何度か足を運んでみることをオススメします。