2022年7月の山形の旅。
鶴岡市の中心部にある鶴岡公園にある藩主であった酒井家をお祀りする荘内神社を参拝した後は、城跡を見学しました。
荘内神社は鶴ヶ岡城の本丸跡に建てられたものなので、すでに城跡の中心にいるということになります。
真夏の公園内、ちょっとキツいかな~と思いながらも、公園の中は緑も多く程よく木陰もあったので歩けました。(熱中症対策を忘れずに)
鶴ヶ岡城について
この土地の有力者であった大泉氏(のちに武藤大宝寺氏)が鎌倉時代に築いた大宝寺城が前身。
戦国時代には上杉景勝の領地になるものの、関ケ原の戦いでは西軍に味方したために減封され、それにかわって山形城を本拠とする最上義光の支配下になります。この時代に整備が行われ、鶴ヶ岡城という名称になったのもこの頃でした。
最上義光の亡くなった後、最上家にお家騒動が勃発。これにより改易されると、1622年に松代藩から酒井忠勝が転封。
入城後、50年以上をかけて城の拡張や城下町の整備が行われました。
当時から天守はなく、本丸の中心には本丸御殿が建てられ、二層の隅櫓が存在しましたが、明治の廃城令により建物は取り壊されています。
当時から石垣などは少なく、土塁と堀により防御された城となっています。
鶴岡藩と酒井家
藩主酒井家は、徳川四天王の筆頭である酒井忠次を初代とする譜代大名のお家柄。(酒井忠次は徳川家康と親戚関係にあります)
最上氏の改易により分割された旧領のうち、庄内13万8千石の鶴岡藩を酒井家が引き継ぎました。
庄内地方の稲作の推奨や農村改革、さらには飢饉の際にも最小限の被害に食い止めるなど領民の信頼を得ていきます。
「三方領知替え」といわれる藩主の入れ替えが画策された時には、領民たちが江戸まで出向いて直訴。これにより領地替えは撤回されました。
また、幕末の戊辰戦争では、奥羽列藩同盟の中心勢力となり戦うものの敗北。藩主は移転させられるところを家臣や領民たちが献金を集め明治政府に納めることで、それを阻止しています。
庄内藩は、明治までの約250年間、酒井家のもとで藩士、家臣と領民が強い結束を維持してきました。
徳川家康が全幅の信頼を置いていた側近 酒井忠次の子孫ということで、ついつい記事にも熱が入ってしまいました(;^_^A やっぱりお家柄の格が違うわ~
鶴ヶ岡城の遺構
建物の遺構は残っていませんが、堀や土塁などの跡が整備されています。
荘内神社大鳥居の横にある城跡の石碑からスタートです。
このあたりが、城への入口である大手門があった場所になります。
石碑の横にある復元図が参考になります。イメージをふくらませながら歩きましょう。
二の丸 大手門跡
現在の参道は、かつての内堀が埋められている部分となりますが、堀の一部も残っています。
内堀
かつては本丸をぐるりと囲っていた内堀。ちょっと美しくない部分もありますが…
堀については、神社の裏手になる西側のほうが保存状態が良好です。
本丸御殿跡
現在の荘内神社のある場所には本丸御殿がありました。
堀や土塁の保存状態の良い西側に向かってみます。
神社の右手奥(西北)へ向かいます。こちらには遺構が多く残っています。
こちらの内堀には菖蒲やあやめが植えられていました。
二の丸 外北門跡
外堀へ続くこの部分には、土塁が築かれています。(古地図からは櫓門もあったと思われる)
遠目には高く見えませんが、近づいてみると4~5メートルくらいの高さがあります。
外堀(北側)
再び二の丸の方に戻ります。
本丸御隅櫓跡
本丸の北西にあったといわれる建物がCGで再現されています。
写真左側ですが、今は土塁しか残っていません。
この場所、神社の裏手から行くことができたのかもしれませんが・・・道を見逃してしまいました。この位置から妄想、ということで(笑)
外堀(西側)
西側から外堀へ。三の丸があった付近は学校や官庁が立ち並んでいます。
鶴岡公園は「日本さくらの名所100選」にも選ばれていて、その数700本超。
一部は埋め立てられてはいるものの、豊かに水を湛えた堀が当時の規模や面影をいちばん残していると思われます。
本丸 中の御門跡
市役所に近い部分の内堀には石造りの橋がかかっています。
古地図からも本丸中門に通じる橋がかかっていたようです。
橋をわたった先は、中の御門跡。現在その場所には瀟洒な洋館が建っています。
大正時代に建てられたものなので城とは直接関係はありませんが、無料で見学できるので立ち寄ってみました(暑いので、ちょっと涼みたいという理由もありましたけど…)
大寶館
大正天皇の即位を記念して1915(大正4)年に造られた建物で、物産展示や図書館として利用されました。
現在は、郷土の偉人などを紹介する資料展示館となっています。
100名城スタンプ
本丸跡である荘内神社の社務所(御朱印をいただく窓口)に設置してありました。
まとめ
元々その土地の武将ではないものの、これだけ領民と強い結束で結ばれている酒井家の功績は素晴らしい!
城跡は地味にも感じましたが、堀の遺構が美しく保たれていて、周辺にはたくさんの桜の木をはじめとした植栽があり、市民にとっても人気の公園になっているようです。
これも酒井家と良い関係を保ってきた地域の人々(子孫たち)たちがこの場所を守りたいという思いの強さではないでしょうか。
私の地元は徳川家康の居城ではあったものの、その後は別名「出世城」といわれるほど譜代の”転勤族”がやってきては入れ替わりました。城跡も(正確には家康の後に城主となった堀尾吉晴の時代のものといわれています)石垣は残るものの堀は埋められて形跡は皆無。鶴ヶ岡城のことを知れば知るほどうらやましいと思ったのでした。
酒井家が残した史跡めぐり まだまだ続きます。