2022年7月の山形の旅。
鶴岡公園周辺の鶴ヶ岡城跡、荘内神社、致道博物館を訪ね、この日のラスト訪問先は庄内藩校跡「致道館」です。
致道館の概要
庄内藩酒井家9 代忠徳(ただあり)が藩政の振興を図るために1805(文化2)年に創設した学校です。
「致道」は、論語の一部「君子学んで以てその道を致す」に由来しています。
創設時は鶴岡駅前にありましたが、1816年に鶴ヶ岡城の三の丸である現在の地に移転されました。1万5千平方メートルの広大な敷地には、学問所の他に寄宿舎や武術稽古場なども備えられていました。1873(明治6)年に廃校になるまで、多くの人材を輩出しました。
国指定史跡 「庄内藩校 致道館」について
廃校後は県庁舎、警察署、尋常小学校などに利用され、1951(昭和26)年に国指定史跡となります。1972(昭和47)年から一般公開されています。
かつての藩校は、建物はなくとも地域の名門校などして歴史が引き継がれていることが多いようですが、庄内藩校は当時の建物が現存した貴重な史跡となっています。
これらの現存建物を入場無料で見学することができます。
致道館の建物
表御門
藩主が出入りする時に使用する門です。
大きい通りに面した市役所の向かいには、西御門と東御門も現存します。
西御門
教職員や藩の役人が出入りに使用した門
表御門をくぐると正面に講堂、棟続きで右側に御入間(おいりのま)、左側には廟門と聖廟があります。コンパクトにまとまっています。
聖廟
2月と8月に儒学の祖である孔子を祀る「釈(せき)てん」が行われた場所です。
この聖廟は廟門とともに現存建造物なのですが、建物の全体の写真が撮れていませんでした…
講堂と御入間
正面の建物が講堂。棟続きで、藩主が御成りの時に利用した御入間(おいりのま)があります。
こちらは建物内に上がって見学ができます。
特に受付もないので、勝手に上がって自由見学です。
講堂は生徒たちが講義や式典で集まるほか、藩主が参勤で留守のときには役所として会議なども行われていたそうです。
藩校に関するもの以外に、酒井家に関する歴史史料の展示もあり見入ってしまいました。
徳川(松平)家と酒井家はそもそも祖先を同じくする親戚(家康にとって忠次は義理の叔父にあたります)です。
さらに”家紋チェンジ”の解説もありました(三つ葉葵の紋のルーツは諸説あります)
こっちに夢中になっていたら(閉館間際で)御入間(おいりのま)を見る時間がありませんでした(>_<)
その隣の御三の間
この部屋はお供の人が控える間。その奥が御入間だそうです。
まあ、部屋より歴史史料が充実していて面白かったということで...
遺構などの平面表示
講堂から出て奥に進んでみると、(建物は取り壊されているエリアに)当時の建物の間取りを表した展示がありました。
角度を変えて見ると、鶴岡市文化会館(荘銀タクト鶴岡)が見えます。
2017年に完成したばかりの近代的な施設です。
鶴岡の文化教育の中心地として、歴史は受け継がれていく...ということでしょうかね。
鶴岡公園周辺の史跡を見てきましたが、三河出身の酒井忠次の子孫たちが、地縁のないこの地域に根を下ろし、庶民に慕われながら250年近く繁栄してきた様子は、史跡を訪ね歩いてみると実感します。
都市開発の影響も少なく、今なお藩校の敷地や城跡が残り、街並みも美しく保たれていることはうらやましい限りです。
徳川譜代のお家柄である酒井家が残した貴重な史跡や資料などを、これからも守っていっていただきたいと思うのでした。(by.三河&遠江のDNAを持つ歴女)
私の場合、興味が一般とはちょっとずれていて!?大事なところを見逃した部分もありますがそのついでに...
この致道館の建物と致道博物館に移築展示されている建物で気になったのが「赤瓦」。
赤瓦というと山陰地方の石州瓦や沖縄のイメージが強いのですが、東北の地でこれだけの赤瓦が多様されている特別な理由があるのでしょうか? これ石州瓦なんでしょうか? 謎です。
こちらは致道博物館で見た藩主御隠殿の屋根です。
致道館の場所と駐車場
鶴岡市役所の道路を挟んだ向かいにあります。
駐車場は隣接する鶴岡市文化会館の駐車場を利用しました。閉庁日ならば市役所の駐車場も利用可能です。
前記事でご紹介した「致道博物館」と混乱しやすいのでご注意ください。
致道博物館からは500メートルほどです。
どちらも歴史的価値のある素晴らしいものなので、時間に余裕をもって鶴岡公園周辺を訪ねることをおすすめします。
翌日は、出羽三山めぐりに向かいます。