2022年10月の佐賀旅行記です。
1日目は唐津市にある秀吉の築いた幻の名城である「名護屋城」を訪ねました。
時間をかけて城跡をもっと見たかったのですが、2泊3日で佐賀県内を走り抜けなければならないため、翌朝は周辺の陣跡を巡りました。
名護屋城周辺の陣跡について
1592~1598年にかけて行われた豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、ここ名護屋城に国内の大名たちが召集されました。
その数150~160。総勢にして20万人以上ともいわれています。
それはまさに戦国オールスター。この時の秀吉の勢いに逆らえなかったんでしょうね。
こちらが陣跡の地図です。
陣跡のうち20数か所が国指定の特別史跡として整備されています。(青丸の箇所)
配置や規模を見ると、秀吉との関係性もなんとなくわかるような気がします。
陣跡というと関ヶ原っぽいイメージですが、関ヶ原は半日で終わった戦場。
一方、この名護屋城は数年にわたり陣を構えて滞在(生活)していたため、建物があった形跡なども発掘されています。
私の目的はただひとつ。徳川家康の陣跡を目指すのみ(^^)v
その前にちょっと情報収集です。
100名城の名護屋城ですらマニアックなのに、はるばる九州まで徳川家康の陣跡を見に行くなんてコテコテの家康マニア(私のような?)しかいないと見えて、とにかく現地に行くまで情報が少なかったのです。
「道の駅 桃山天下市」で情報収集
道の駅 桃山天下市
名護屋城博物館の入口からすぐのところにある道の駅。
秀吉ワールド全開の名前です。門を入って左手に観光案内所がありました。
ちなみにおみやげもこんな感じ。「秀吉まんじゅう」「太閤ロマン」 ふ~ん(苦笑)
私は買わんけどね・・・
観光案内所に行って、家康の陣跡に行きたいと言ったところ、(女ひとりなので驚かれたようすで)「何もないですよ~」のひとこと(爆)
続いて「雰囲気だけ味わうという気持ちで行ってください」ということでした。
実はまったく同じようなことを前日に名護屋城のガイドさんにも言われました(笑)
しかしこちらでは、アクセスについての詳細な情報も伺うことができました。
なお、名護屋城の入口にも観光案内所があり情報収集できます。
この道の駅には隣接して前田利家の陣跡があります。
前田利家陣跡
近くにあるなら・・・と店内に入る前にここに入りかけましたがこの先NGです。
後で聞いたらガチのハイキングコースとのことでした。
教えてもらったとおりに、道の駅の裏手の方から再度進んでみました。
破却された石垣のようなものが少し見えてきました。
この先に陣跡があるようですが、(姿は見えないのに)すごい勢いで犬が吠えるので怖くなって退散。まあ、私としてはさほど興味がないのであきらめも早いです(笑)
ここからは目的地へ向かって先を急ぎました。
徳川家康陣跡
道の駅から1kmほどの距離。住宅街を抜けるのでゆっくり走って5分ほどです。
到着した場所はなんと!保育園でした(カーナビも保育園に設定)
短時間でしたので保育園の駐車場の隅をお借りしました。
案内の矢印どおりに進むと敷地内を通ることになります。
このため、開園日に行く場合は職員さんに声かけしたほうが良いとアドバイスいただきました。
しかしほぼ全員と思われる園児や保育士さんたちが園庭にて活動中。
これでは声をかけにくいので、近くの住宅前にいた初老の男性聞くと、園内を通らず行くことのできる北側の道(未舗装ですが手入れされています)を教えていただきました。
またしても「何もないけどね」と言われました~(笑)
駐車場から徒歩2分で到着。
徳川家康陣跡(北郭)全景
たしかに何もない・・・
少し小高い丘のこちらが北郭、その先、現在保育園となっている南郭がありました。
発掘調査では石垣なども発見されているものの現在は埋め戻されていて、痕跡を見ることはできませんでした。
「竹ノ丸陣址」の石碑
家康の幼名「竹千代」が由来でしょうか?
少しくたびれた案内板がありました。ここも陶板にしてほしいな。
奥に見える石碑は家康とは全然関係ないものです。
実際にこの地を自分の目で確かめるまで、文禄の役・慶長の役に関して、家康はのらりくらりと秀吉の召集を断って、江戸のまちづくりに勤しみ、打倒豊臣に向け力を蓄えていたと思っていました。
しかし、改めて九州の地を踏んでいたというのを実感。
よく耐えたゾ、家康!それがわかっただけでも大収穫です。
徳川家康の出兵について
その家康ですが、この名護屋には15000人の兵を引き連れてきていましたが、実際には朝鮮半島に出兵することはありませんでした。
この地で主に朝鮮からの来賓などを接待する役割を担っていたそうです。
陣跡からは茶室があった形跡も発見されています。
しかし毎日朝鮮の人が来るわけでもありませんから、全国各地の大名たちを茶室に招いて人脈を広げていました。それは関ヶ原の戦いでも大いに役立っていると思われます。
また、名護屋湾を挟んだ対岸(イカで有名な呼子町)にも別陣があります。
当時は250万石を有する家臣筆頭ですから別格の扱いということもわかります。
駐車場へ戻った際に、道を教えてくれた方に御礼を伝えつつ雑談。
陣跡ではかつては保育園の運動会も開催されていたけれど、今ではお子さんが減って使われることはなくなったそうです。
しかし写真からもおわかりのとおり、地元の方々が雑草の刈り取りなど定期的に整備されているとのことでした。ありがとうございますm(__)m
さらに「保育園の門柱も見ておいで」と教えていただきました。
なんと葵の御紋が輝いていました(逆光です・・・)
背後の救急車は急患のためではなく「働く車」の公開授業中でした。
この葵の御紋に見守られて育ったこの園の子供たちが、大きくなって徳川家康に興味を持ち浜松や三河などゆかりの地を訪ね歩いてくれたらうれしいです。
その他の陣跡のご紹介
この後は、気になる案内標につられて見てきた陣跡のようすなどをざっくりと。
北条氏盛陣跡
宿泊した「国民宿舎 波戸岬」のすぐそばにありました。
陣跡の碑の他に、周辺の詳しい史跡案内もあります。
歩道はきれいに整備されていますが、遺構らしきは見当たらず、その先には玄界灘の絶景が広がっていました。
観光案内スタッフのおっしゃったとおり、この景色を見ながら出兵したのか~と想像力をたくましくして、雰囲気を感じましょう。
加藤清正陣跡
秀吉恩顧の家臣で最前線で戦いましたが、(この朝鮮出兵に対する不満が要因となり)秀吉の死後は家康方についています。
分岐に案内もありませんのでここまで。
結城秀康/石田三成陣跡
この陣は、名護屋城からずいぶんと離れた場所にありました。
狙って行ったのではなく、次の目的地に向かう途中偶然この案内標を発見。
このふたりも秀吉にかなり近い立場なので、出兵というよりは名護屋城の秀吉のお守役として来ていたのではないでしょうか。
わずか数年後に敵同士となる石田三成と家康の息子が隣同士に陣を構えているのも興味深いです。
陣跡巡りの注意点
ご紹介したように各所に立派な案内標が建てられています。
さらにこのエリアは走っているとカーナビにも武将の名前がちょくちょく登場します。
しかし、この案内標があるから見学できる史跡とは限りません。
片側1車線で、駐車場がない場所がほとんどですので、急停車にも注意しましょう。
ご贔屓の武将が陣を構えた雰囲気を味わいたいという方もいらっしゃると思いますが、観光案内所などで整備状況を収集してから訪ねることをおすすめします。
なお、整備状況の良い陣跡としては、堀秀治陣跡がおすすめとのこと。
多くの陣跡は公共交通機関でのアクセスは難しく、自家用車またはレンタカーでのアクセスが必須となります。(季節によっては自転車もありかもですが・・・)
冒頭で紹介した地図は「肥前名護屋城歴史ツーリズム協会」が発行しています。
協会が主催する陣跡めぐりツアーの情報なども掲載されています。
なお、現地でお聞きした情報では松本潤さんが少し前に名護屋城を訪れたそうです。
ということは「どうする家康」ではこの朝鮮出兵について描かれるのでしょうか?
まだまだ先の話ではありますが、楽しみになってきました。
【2023.10.9追記】
第38回で、朝鮮出兵に関して描かれました。暴走する秀吉とそれを諫める家康の対比、そして男たちを翻弄する”女狐” 茶々の描かれ方が興味深かったです。
名護屋城跡と徳川家康陣跡も紹介されていました。