数年前から天守台の発掘調査が進んでいる駿府城跡に行ってきました。
駿府城跡に復元された櫓など建物と発掘現場の双方が見られる貴重なチャンスです。こちらも臨済寺などと一緒に巡るツアーの一部で訪ねてきました。
駿府城跡(駿府城公園)とは
徳川幕府を開いた徳川家康が晩年を過ごした城として有名です。
14世紀中頃(室町時代)に今川範国(今川家3代当主)が駿河国の守護を務めた際に今川館(やかた)が建てられたのがはじまり。(今川義元は11代当主になります)
その後、徳川家康が1586年頃入城し近世城郭が建造されます。家康はその後江戸に移りますが、将軍を二代・秀忠に譲った後は再びこの地で晩年を過ごします。その際には天下普請で壮大な天守が築かれています(17世紀半ばには天守焼失)。
家康の死後は、明治維新まで幕府直轄として城代が置かれていました。
廃城令により石垣以外の建物で現存するものはなく、現在は三の丸部分は静岡県庁などの官公庁、学校など、二の丸のあった部分が駿府城公園となっています。
地図は駿府城公園公式サイトよりお借りしました
公園への入口は各方向にありますが、史跡として訪ねる場合は東御門からをおすすめします。今回はこの東御門から入り、巽櫓(たつみやぐら)を見学の後、公園内を斜めに横断して天守台発掘調査中の様子を見てまいりました。
復元された門と櫓
1638(寛永15)年に再建されたものの明治時代に取り壊され現存していませんが、古図などをもとに1996(平成8)年に再建されました。
二の丸堀にかかる東御門橋と高麗門、櫓門、多門櫓から成る枡形門で、城への主要な出入口でした。
東御門橋
枡形門
梁を見ただけでもかなり立派な一本柱を使用しています。1本ン百万円とのこと。
櫓とはいえどもさすが大御所の城。そのへんの小さな城の天守くらいあります。悔しいけれど若かりし日を過ごした浜松城とは比べものになりません(泣)
公園内の出入りは自由ですが、櫓などの見学は有料になります。枡形門をくぐった先にチケット売場があります。ここではオリジナルグッズや御城印も販売されています。
巽櫓(たつみやぐら)
櫓内は駿府城のようすがわかる展示資料室
木造本瓦葺きの建物の内部は資料館になっています。
駿府城天守模型
完成して数年で焼失してしまったため絵図などからの再現。”多分こうだったんじゃないか・・・”の復元模型だそうです。模型とはいえなかなかの迫力です。名古屋城や大阪城を超える規模ですね~
駿府城の模型や発掘された品、さらには駿府城下や当時の暮らしの様子などのパネル展示があります。ホンモノの歴史史料は少ないのですが駿府城のありし日々をイメージしやすい展示になっています。
気になる埋蔵金はなく、小銭くらいしか出てこないのが残念ですが・・・(苦笑)
現在、この巽櫓前に歴史博物館の建設が予定されています。
徳川家康が(静岡と浜松をあわせ)人生の半分以上を過ごした地域でありながら県内にまともな歴史博物館施設がないことを県民として不満に思っていました。歴史ブームに乗り遅れた感はありますが、やっと重い腰をあげてくれたことは素直に喜びたいと思います。
令和4年頃の開館予定ですが、工事中にいろいろと発掘されてしまうそうで度々工事が中断しているのだとか (今まで放置しすぎていたらしい・・・)
公園の中心にある晩年の徳川家康像
みなさんがイメージする”タヌキおやじ”な銅像です(苦笑)
なお、静岡駅前には竹千代君の銅像もあります。
3つの天守台が発掘された天守台跡発掘調査現場
天守台発掘調査現場は徳川家康像の後ろにあります。2016年から4年の予定で発掘調査が行われていて、足を運ぶのは二度目です。
前回2017年5月の発掘状況
発掘範囲が広がり、見学ルートも変わっていました。
2020年2月の発掘現場の様子
県庁別館21階の展望ロビーから発掘現場の全体像が眺められます。お天気が良ければ富士山も見えます。
3年前には無造作に積まれていた土も、発掘現場の北側に天守台の高さとされる地表12メートルにあわせてかためられていました。
江戸城より大きかった慶長期天守台
今回の発掘調査の主目的となっていたのがこのエリア。
大御所時代の1607年に築城が開始され1610(慶長15)年に天守が完成しています。しかしその後焼失してしまい、天守のないまま石垣が残っていました。
天守台は1896(明治29)年に日本陸軍(歩兵第34連隊)の設置により地表部分が破壊され、その残土で本丸堀が埋め立てられました。
今回の発掘で、堀と石垣の遺構が当時のまま出てきたというわけです。関ヶ原合戦以降の石積み(打ち込みハギ、切り込みハギ)が見られます。
天守台の大きさは68m×61mとのこと。ちなみに江戸城は45m×41mなので圧倒的に駿府の方が大きいわけです。
ガイドさんのお話では、石垣を積む要素として栗石(ぐりいし)が内側に敷き詰められていますが、このような形で断面を見られるのは珍しいとのこと。
天正期の天守台
発掘調査が進むうちに新発見となったのが、慶長期の天守台の東側(下記写真の奥)で見つかった天正期の天守台です。
徳川家康が、豊臣秀吉よりこの駿河一帯を領地として与えられ浜松から駿府へ移る1585(天正13)年頃から築城が開始されました。
その後、江戸城へ移った後は、豊臣方の家臣である中村一氏に築かせたものといわれ、その天守台の近くからは金箔瓦が発見されています。
石垣は戦国時代の主流である野面積みとなっています。
発掘された金箔瓦
330点ほど出土したそうで、一部は見学ゾーン入口近くにある情報施設「きゃっしる」に展示されています。
金箔瓦は、織田信長が自身と一門の城に用いたのがはじまりで、その後それを受け継いで豊臣秀吉が築いた城、さらには家臣に築かせた城にだけ見られるものだそうです。
この2つの天守台の相関図はこんな感じ
緑の部分が慶長(江戸時代)、赤の部分が天正期のものです。
これだけでも歴史ファン大喜びなのですが、さらに2019年末に新たな発見がありました。
2019年末に発見された天正期の小天守台
天正期の天守台のさらに東に、約20m四方の小天守台の遺構が発見されました。
注)見学当時その場所がはっきりわかりませんでした。この写真のさらに手前かも?
これは、大天守と連結するような跡も見られることから、戦国時代では初の連立式天守が存在していたのではないかと話題になりました。
さらには、家康が秀吉の”協力”のもと連立の城を造ったのでは?との推測もあります。
ガイドさんいわく、「次々に発掘されて説明が二転三転してしまい、私たちも困っているんですよ~(うれしい悲鳴)」
発掘現場見学について
発掘調査は平日に行われています。調査が行われていない日でも、シースルーな囲いから中の様子を見ることができます。
現場スタッフのお衣装が粋ですね。
また、情報館「きゃっしる」は入館無料で、ボランティアさんが常駐しています。
まとめ
昔、静岡に住んでいたころに聞いた話では「駿府城は掘ると大変なことになる(歴史的価値が大きすぎて調査の規模も半端ないという意味)からなかなか掘れない」とのことでした。当時の私は「埋蔵金出ちゃうから?」なんてアホな推測しかできませんでしたが、今となればこういうことだったのか、と感慨深いです。
さらにこの付近に今川氏館の遺構もあることがある程度はわかっているらしいのです。
前回訪ねた時には、ボランティアガイドさんが「調査が終わったら埋め戻します」的なことをおっしゃっていましたが、その期限は今回訪ねた2020年2月でした。
この先どうなってしまうのか、お聞きするタイミングを逸してしまいましたがこの状況であっさり埋め戻すのはもったいない!!
こうなったら今川氏館まで一気に掘ってしまえ~~
そしてこの発掘された現場そのものを展示施設にするのが夢やロマンがあって良いのではないでしょうか?