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【イケメンからタヌキ親父まで】徳川家康像を巡ってみた~浜松・静岡編~

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徳川家康を祀る東照宮は全国各地にあるのに、意外にも像は少ないのでは?と思い、今まで見てきた家康像を集めてみました、という記事 愛知県(岡崎)編の続きです。

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苦労時代の浜松 にある家康像

浜松市民以外あまり知らないと思いますが、(人質時代を除き)在城期間がいちばん長かったのが浜松城(遠江国)です。 

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(2019.10撮影)天守は模擬天守

 

その1 浜松城の”若き日の徳川家康”像

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浜松城天守の下(大手門を出て下ったところ)にあります。

家康は浜松城初代城主として28歳から17年ほど在城しました。

手にしているのは兜(かぶと)のモチーフにもなった歯朶(シダ=羊歯)。子孫繁栄の象徴でもあり、多くの子孫を残して260年続く徳川幕府を盤石なものとした家康をあらわしています。

しかし、家康にとって浜松は”消し去りたい過去”もたくさんある町です。

歴史的に有名な三方原の戦いでは家臣を身代わりにしてまで命からがら城に逃げ帰りました。その途中、ウ〇コを漏らしたという逸話は(大河ドラマでネタにされるほど)有名です。

信長の命令で、嫡男 信康と正室 築山殿を失ったのも浜松時代。

この浜松時代には一歩間違えば命を落としていたかもしれない大きな戦をいくつも経験しています。

しかしそこを生きながらえて、天下を統一を果たすことができた家康にとって、浜松は最強のパワートポットということにもなるのでは、地元贔屓ながら思うのです。

 

そんな浜松には近年新たに造られた家康像もあるのでご紹介します。

その2 元城町東照宮の家康像

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家康は浜松に入り、もともとあった引間(ひくま)城を西南に拡張して新たに浜松城を築城しました。「浜松」という城名も家康がつけたものです。

その引間城のあった場所に明治時代に創建された元城町(もとしろちょう)東照宮

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この社殿右側に家康と秀吉の像があります。

なぜ秀吉がここに?ですが、ざっくりいうとこの浜松で丁稚奉公(でっちぼうこう)をしていました。

家康は戦に明け暮れた浜松らしく甲冑姿、幼い秀吉は天下人とは程遠い小僧姿です。

浜松市は近年出世の街として売出し中(笑) 

三英傑のうちの二人が関わった浜松で、像の間に立って記念撮影すれば出世運が上がるということらしいのです。

 

その3 頭陀寺の三公像

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浜松駅から車で15分ほどのところにある頭陀寺(ずだじ)は、秀吉が奉公していたと伝わる 国人領主 松下嘉兵衛の屋敷の隣にあるお寺です。

頭陀寺の境内に造られた三公像は、奉公時代の秀吉(左)、真ん中は(ここにはいないはずですが)駿府で人質時代の家康、そして右は家康の小姓として出世していった井伊直政が並んでいます。

この像は、大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放映された年にお披露目されました。もうなんでもありの浜松(笑)

なお、松下家の屋敷跡は市街化され道路や住宅、一部公園になっています。

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幼少人質時代と晩年を過ごした静岡の家康像

家康はトータルすれば静岡に住んでいた年数もかなりのものです。

人質として駿府にいた幼少時代、浜松から移封し江戸に移るまでの数年、そして大御所時代。生涯を閉じたのも駿府城です。

 

その1 駿府城 本丸跡の家康像

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(2013.1撮影)

メディアなどに登場するもっとも有名な家康像がこの像です。

(今後は東岡崎駅前のものと競合しそうです)

若いころから鷹狩りが大好きだった家康の”大御所”時代のお姿。還暦を過ぎた頃でしょうか?

まだ大坂の豊臣が気になるとはいえ天下統一を果たした余裕と貫禄がたっぷり。

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タヌキ親父をイメージづける銅像ですが、”ホトトギスが鳴く”のを辛抱強く待ち続けた苦労人なのです。

家康にとって辛い人質時代を過ごしながらも、再びこの地に戻って余生を過ごしたのは気候や風土もあっていたということではないでしょうか? 

 

駿府城は家康により何度か改修されています。

近年、天守付近の発掘調査が行われ、天守石垣の他、金箔瓦も発掘されました。秀吉(あるいは秀吉の家臣)が築城に関わった可能性が指摘されています。

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(2020.2 撮影)  

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その2 静岡駅前の家康像と竹千代君像 

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(2012.1撮影)

JR静岡駅前(北口)には家康像と竹千代君像があります。

 

駿府城の家康像に比べちょっとスタイルがよろしくないのですが・・・

家康は実際には身長159センチくらいだったそうですから、こちらの方が真実に近いかもしれませんけどね。

一方、竹千代君像は元服前、12~13歳くらいの姿でしょうか? 

家康は約10年人質としてこの静岡で過ごしました。

今川家の軍師でもあった太源雪斎に才能を見出され教育を受けています。その太源雪斎が中興の祖となった臨済寺には、竹千代君手習いの間も復元されています。 

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ここまで、生まれ故郷の岡崎(三河)、苦労時代の浜松(遠江)、大御所時代の静岡(駿府)にある家康像をご紹介してきました。

しかし、家康が築いた町づくりが今の発展につながっているといわれるあの巨大都市はどうでしょう?

 

”お江戸”東京に家康像はあるのか?

家康が江戸城に入るまでは、低湿地で人もあまり住めなかった田舎を、日本の首都にまで発展させた功績を考えれば本来東京駅前に銅像があってもおかしくありません。

ところが!東京駅前どころか、かつての江戸城、現在の皇居エリアにさえ家康像はありません。

なぜか皇居には楠木正成 

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上野はどうでしょう? ここは徳川の菩提寺でもあった寛永寺の境内でした。

ところが!ここには西郷隆盛。寛永寺を燃やしちゃった上野戦争の”戦犯”でしょうが。

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せめて寛永寺を創建した天海大僧正にしてほしいですよね。

 

東京の人は家康が嫌いなのかしらね? しょせん三河の田舎者、という扱いなのかしら?

こんな調子ではどこをさがしてもないだろうと思っていたのですが、ググってみると実は存在することを発見!

それは私も何度か足を運んだことのあるこちらでした。

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両国にある江戸東京博物館、それも屋外のわかりにくいところにひっそり立っているらしいのです。

(なお、私の記憶では館内の展示品に家康の木像坐像があったと思うんですけど・・・それはノーカウント)

その真相を確かめにいきたいところですが・・・このコロナ禍では、もう少し後になりそうです。

 

大河ドラマで人気者になれば、各地に銅像も増えるのでは?とかすかに期待をしている家康ファンでございました。