2014年11月の熊本城探訪記です。
熊本地震のわずか1年半前の熊本城の雄姿を堪能した記録です。
この後の2016年、2023年の訪問記録と比較していただけるように編集しています。
もうあの時と同じ景色は見られないのは残念ですが、貴重な写真も公開しています。
ガイドツアー「くまもとさるく」で巡る熊本城
当時、「くまもとさるく」として開催されていたガイドツアーのひとつ「いざ熊本城へ」コースに参加。
熊本城には無料ボランティアガイドもいらっしゃいますが、人数に限りがあるので、有料でガイドをお願いするプランでした。
有料といっても参加ひとりあたり500円(入場料は別途)とリーズナブル。
さらに記念品のてぬぐいとミネラルウォーターもいただいたので、ほぼタダ。
私たちのグループ4名に初老の男性ガイドさんが専属でした。
※2024年現在、同様のガイドツアーは「くまもとよかとこ案内人の会」により開催されています。
2014年11月の熊本城内
櫨方門から入城
このコースは、熊本城にある櫨方門(はぜかたもん)からの入城です。
お城全体像についての説明からスタートです。
日本三名城のひとつと数えられる熊本城
広さ約98ha(東京ドーム21個分)、周囲約5kmという広大な城郭は、外様(とざま)大名の城としては最大の規模。
7年の歳月をかけて1607年に完成しています。
築城したのは、尾張出身で豊臣秀吉に仕えた加藤清正です。
まずは、ガイドさんおすすめのフォトスポットで記念撮影
石垣の合間から大天守がのぞめるのはもちろんですが、重なるように立ちはだかる石垣には櫓や塀など建物があったと聞いて想像すると、くらくらしそうです。
高度な築城技術を用いた強固な城郭ですが、時はすでに江戸時代。
ここで戦となることはありませんでした。
しかし明治時代の西南の役の際、失火によりほとんどの建物が焼失します。
石垣や建物の一部は残っていたため、昭和以降、古写真などを参考に当時の建物を復元しているそうです。
長塀(重要文化財)
城域の南側に位置する塀です。
高さ2.4メートル、240メートルの見事な長塀が続きます。現存の塀では国内最長。
この塀の外には、花畑御殿と呼ばれた広大な藩主の屋敷が存在していました。
※熊本地震で一部が倒壊。その後2021年に復旧工事が完了しました。
続いて本丸へ
クランクだらけの通路の両脇には、高さ10m以上の石垣がそびえます。
熊本城の石垣は、戦国時代中期以降の技術といわれる打込み接(うちこみはぎ)という技法が使われています。
石を加工して、隙間を極力なくした強度の高い積み方です。
敵の武士の気持ちになってみると、「この構造と守りでは、天守へ攻め込むのはムリだ」とあきらめモード全開(悲)
飯田丸五階櫓
櫓(やぐら)といえば、お城の隅にある見張りや倉庫のための建物。
熊本城の櫓は一般的な天守閣のサイズ並みにでかいんです。
こんな規模の五階櫓が熊本城には、かつて5つほどあったとか。
この建物は2005(平成17)年に再建されたものですが、内部は、当時の建築・加工技術を用いて再現されています。
※熊本地震で石垣が崩壊。わずかな石垣で建物が支えられいる「一本石垣」の姿がショッキングでした。2024年現在建物は取り壊されて復旧工事中です。
飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)を見学した後は、とことん石垣三昧。
熊本城の石垣 武者返し
城内いたるところにみられる石垣の特徴は、「武者返し(むしゃがえし)」と呼ばれています。
裾はゆるやかですが、上に行くにしたがって急こう配になり、敵が登れないように計算されています。
加藤清正は、名城といわれる大規模な城(江戸、名古屋など)の普請だけでなく、治水事業などにも功績を残しています。
建築のみならず土木にも長けている清正を、私は「戦国のガウディ」と呼びたい!
そんな石垣の中でもっとも有名で、「美」と「技」が見られる有名スポット
二様(によう)の石垣
手前のゆるやかな石垣は築城当時の清正時代のもの。
奥の急こう配の石垣は、その後の細川時代のものとなっています。
石積みの技術の進歩により、より急こう配の石積みが可能となりました。
なお、御殿を拡張するために石垣が継ぎ足されたそうですが、太平の世になってもまだまだ石垣を増強していたのかと驚きます。
ここまでくると防御というより、加藤v.s.細川の建築美対決といえますね。
※二様の石垣は、地震による大きな被害はなく当時の姿をとどめています。
石畳にも隠された秘密がたくさん
それにしても、よくこれだけの石を集めたものだと驚きます。
その理由として、比較的近くで採石できたことや平山城なので、さほど運搬には苦労しなかったことがあります。
しかし、これだけのものを作っているとさすがに石が不足します。
階段には、梵字のよう文字や不思議な削り後がある石などがちらほら。
さらに石工の傑作とでもいうべき「地図石」
数寄屋丸への入口の待機場所ですが、この組み方(デザイン)は、熊本城の縄張り、または日本地図を表しているともいわれています。
数寄屋丸
歌会や茶会が催されたという数寄屋丸(すきやまる)
※地震により、石垣が崩壊、建物にも大きな被害が出ています。
宇土櫓(重要文化財)
櫓(やぐら)のくせに大きいっっ
さらに熊本城の建造物の多くは、明治時代の西南戦争で焼失しましたが、焼け落ちずに残った貴重な建物のひとつなのです。
左側の入口から続く廊下は、石垣との高さを合わせるため傾斜しています。
中に入ると、再建されたものとは違う風格を感じます。
階段の角度が歴史を物語っています。
※地震で櫓の倒壊こそ免れましたが、内部や周辺の損傷が大きく、2023年より解体修理がはじまりました。
ここから先いよいよ天守へ
大天守と小天守
石垣の間を歩いている分にはそんなに観光客の多さを感じませんでしたが、このエリアにくると外国人観光客や団体客がいっぱいです。
一般的なツアーでは駐車場から頬当(ほほあて)御門に入り、最短でこの天守近くにたどり着くルートをとるようです。
ツアーなどでは時間が限られているのでサクッと天守を眺め、二様の石垣周辺をちょっと見る程度で1時間以内でおさまるルートなのでしょう。
ところが!私たちの「さるく」はすでにここで1時間半経過です。
私に加えて、もうひとり伯母が歴史好きなもんで質問しまくりで・・・(苦笑)
井戸
城内には多数の井戸が掘られています。
秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で駆り出された清正は、籠城戦の際に、水でかなり苦労した経験から井戸を重要視したそうです。
本丸御殿への入口 闇り(くらがり)通路
当時は、ここを通らないと御殿にも天守にも入ることができない構造になっていました。
これもまた、築城の名手・加藤清正らしい名(迷!?)設計です。
復元本丸御殿内部
西南戦争で焼失した本丸御殿は、絵図や写真などをもとに2008(平成20)年に一部が復元されました。
左:大御台所 右:大広間
当時は、障壁画がほぼすべての部屋(広間)にあったそうですが、資料や予算などの諸般の事情にてシンプルなお部屋もあります。
(名古屋城本丸御殿を先に見てしまうとちょっとがっかり)
しかし、奥に行くにしたがって部屋の格式が上がり、装飾もグレードアップ
昭君之間(しょうくんのま)
御殿最高ランクの部屋で、壁面には中国の伝説の美女・王昭君が描かれています。
昭君は「将軍」ともかけられていて、いずれは将軍家(豊臣家)を迎えるために造られたという説も。
秀吉に幼いころから仕え、出世していった清正は生涯秀吉に忠誠を誓っていたことが、建物内に残されています。
これだけの城を作る知力・財力を備え合わせた加藤清正は、徳川にとって脅威であったことは事実だと思います。暗殺説も浮上している加藤清正ですが、いろいろ推測したくなります。(ガイドさんは「それはない」と否定されていました)
※地震により昭君之間の床が沈下し、各広間の壁がはがれ落ちるなどの被害が発生し、現在は非公開となっています。
ここまで長い長い道のりでした~ やっとゴールが見えてきました(苦笑)
天守入口
すでにここでスタートから3時間以上経過(@_@)
「さるく」の設定時間は2時間でしたが、ガイドさんのご厚意により(時間に余裕があるならば、じっくり説明したいとのこと)天守閣も案内してくださることに。
天守閣は、昭和の再建なのでコンクリート造り。
この規模なら当然エレベーターがあるよねと思ったら・・・
熊本城にはエレベーターがないことが発覚!
※熊本地震後の天守復元工事によりエレベーターが設置されました。
すでに足が棒に近くなっていましたが、ガイドさんが一番元気。
すでにライトアップがはじまろうとしています。
なんとか、時間内に天守閣の最上階にたどりつき、市内の眺望を堪能することができました~
正直、天守内の展示はゆっくり見学する時間がなくてあまり記憶がありません。
天守を出た後、ガイドツアーの出発場所(桜の馬場城彩苑)へ戻る道中にもライトアップがきれいに見える場所を案内していただきました。
西出丸からのライトアップ
そして、この日宿泊したのは、熊本城の天守が一望できるKKRホテル熊本。
寝ても覚めても客室の窓から熊本城が見える素晴らしいお部屋でした。
特に朝日に映える天守は感動的でした。
このわずか半年後に地震が発生。
地震直後のテレビ映像で、この天守から砂煙が上がっているのを私ははっきり確認しました。
2016年の地震から半年、復興城主として応援するべく、熊本城に向かったのです。
天守閣の修復が完了した2023年の探訪記はこちら