あれもこれも旅行記を始めなければと思いつつ、こちらをまず。
9月15日の(家康的)歴史的勝利日のちょっと前に行ってきた関ヶ原。
関ヶ原古戦場記念館で迫力のシアターやパノラマ展望を楽しみ、お腹もいっぱいになったところで、徳川家康の陣跡へいざ出陣!
徳川家康の陣跡は2か所あります。
まず関ヶ原古戦場記念館に隣接したアクセス抜群のこちらからご紹介です。
関ヶ原古戦場記念館裏手です。島津、大谷、小早川といった西軍の家紋が見えます。
この芝生広場の後ろにあるのが家康最後陣跡です。
徳川家康最後陣地
最初の陣跡から形勢を掌握しながら、午前11時頃には石田三成の陣の正面にあたるここに陣を移動させました。
中山道を進んでいた息子の秀忠が真田の守る信州上田で足止めされている状況で、これを待っていては自分たちが攻められると判断した家康は、ここから反転攻撃に。
(すでに調略済みにもかかわらず)動かない小早川秀秋などに対して、ここから鉄砲を撃った(問鉄砲)とも伝えられています。
家康の旗印「厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」
現実の世の中は、穢れた世界であるからこの世界を厭い離れ、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること (Wikipediaより)
桶狭間の合戦で絶望の淵から、この言葉を支えに立ち上がってから苦節39年。
ようやく戦のない世が現実のものとなり、ここから江戸時代がはじまります。
床几場では、論功行賞を判断するために討死した敵軍の首実検も行われました。
戦で亡くなった人たちは敵・味方含めて手厚く葬られました。
関ヶ原駅に向かう跨線橋のすぐ横には東首塚があります。
そして、順番が逆になりますが、最初陣地へ行ってみました。
徳川家康最初陣地~桃配山~
最後陣地から直線距離で2kmほど東の国道21号線沿いにあります。
2023年はさすがに「家康推し」が感じられました。
2016年に行ったときと比べると、木々が伐採され、階段まわりもずいぶんすっきりと整備されていました。
Before


After
石田三成の陣(笹尾山)方向を見るとこんな感じ
標高100メートルほどの山。
歴史をさかのぼると、壬申の乱(672年)の時に大海人皇子(後の天武天皇)がこの地に陣を置き、名産の桃を全兵士に配って戦いに快勝したことで「桃配山」と呼ばれるようになり、その縁でここに家康も陣をとったそうです。
故事に倣ったり、神仏を大切にする家康らしいなと感じます。
今なお、近代的な高層建築物が少なく、地形も大きく変わっていないので当時のようすがなんとなく想像できそうです。
ちなみに、このすぐ南側を東海道新幹線がぶっちぎっているので時々轟音が響きますが(笑)
ここにも古い記念碑が立っています。
手前には家康が使用したと伝わる「腰掛石」と「机石」があります。
駐車場について
徳川家康好きになら見ておきたい関ヶ原の史跡
家康好きにとって上記2か所はマストですが、これに加えて下記のスポットを巡れば完璧!
(写真はいずれも2016年当時のものです)
開戦地
井伊直政とその娘婿で家康の四男 松平忠吉が”抜け駆け”して開戦となった地。
井伊&松平の陣は東首塚となった場所(現在の跨線橋近く)にありました。
開戦地までの間には、東軍の先鋒を任されていた福島正則の陣がありますが、福島正則に「下見に行くだけ」と言いくるめ、少ない手勢でここまでやってきて宇喜多に向かって発砲したところ、開戦の状態になってしまいました。
ちなみに井伊&松平コンビは、喧嘩っ早い遠江(とおとうみ=浜松)の生まれでございます(苦笑)
決戦地
石田三成の陣のある笹尾山からほど近い場所。
西軍の敗北が見え始めた頃から三成の首を狙う武将たちが 激しく戦ったと伝わります。
石田三成陣地(笹尾山)
※今年2023年はもっときれいに整備されている!?はず
立地は抜群だったのにね。やはり家康の軍略と人望が勝敗のカギとなったのです。
この周辺には、島左近陣跡や馬防柵の再現、笹尾山交流館(トイレなども併設した資料館)があり、屋外の史跡としてはいちばん雰囲気を感じられるエリアです。
まとめ
大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ石田三成(中村七之助さん 演)が登場。
知的でいい人っぽい雰囲気ですが、関ヶ原の戦に向かって、家康とどう絡み、変貌していくのか楽しみです。
今後も神出鬼没で「どうする家康」に登場するスポットご紹介予定です。