大河ドラマ「どうする家康」も最終回まであと少し。
たまっている寺社巡りの記事を一気に駆け込み投稿している次第です。
家康の三大危機のひとつ「三河一向一揆」の舞台ともなった愛知県安城市のお寺をご紹介したいと思います。
本編の前に、徳川家康の祖先松平家の三河地区の勢力拡大についておさらいしておきましょう。
松平家と安城
家康の祖先 松平家の三代 信光は松平郷から岩津(岡崎市北東部)そして安祥(安城)へと勢力を拡大し、家康の祖父の代には岡崎城を拠点とします。
今回、松平郷から安城に向かったのですが、ナビの案内はまさにこれをたどるルート。
※上記はGoogle Mapで再現したもので、実際にはカーナビの案内でこれに類似したルートで走行しました
このルートで勢力を拡大していくのは必然的だったのかもしれませんね。
松平家が拠点としたのがこちら
安祥城址
永享年間(1429~1440)に和田氏の居館として築かれました。
(1476年頃)岩津から侵攻した松平信光が奪い取り、三男 親忠が城主となりました。
ここに親忠を初代として分家の安祥松平家が誕生。親忠以降勢力を拡大し、後に家康に続く松平宗家となりました。
安祥松平家がこの地を居城としたのは約50年。4代 清康(家康の祖父)の時代に拠点を岡崎城に遷します。
しかし西三河の要衝でもあるこの地は、尾張の織田信秀(織田信長の父)と松平広忠(徳川家康の父)との間で3度にわたり奪い合った歴史もあります。
その後、織田信長と徳川家康の「清洲同盟」により城は廃城となりました。
本丸があった場所には、江戸時代に大乗寺が創建されました。
安祥文化のさと
一帯は「安祥文化のさと」として歴史博物館、市民ギャラリー、埋蔵文化財センターが立ち並ぶ文化ゾーンになっています。
訪れた日が月曜日で休館。城の遺構も一部復元されているようですが確認できませんでした。夕刻ということで人も少なく・・・リベンジしたいところです。
安祥城址のアクセスと駐車場
文化のさと北西側(建物群のある側)に230台の無料駐車場があります。
本丸跡の大乗寺へは公園内を通り抜けるので徒歩5分ほどかかります。
公共交通機関利用の場合、名鉄西尾線の南安城駅が最寄となります。
家康と戦った寺 本證寺
「安祥文化のさと」から南に5kmほどの田園が広がるエリアへ。
本證寺について
【名 称】雲龍山 本證寺(ほんしょうじ)
【ご本尊】阿弥陀如来
【創建年】1206年頃
【開 基】慶円
【文化財】国指定史跡(本堂、鐘楼、鼓楼など)
【所在地】愛知県安城市
三河三か寺(上宮寺、勝鬘寺)のひとつとして、戦国時代には三河一向一揆の拠点になった寺で、土塁や水堀などの防御を備えた城郭寺院の形式をとっています。
一向一揆の後に廃寺になりましたが、江戸時代に再興され、現在も江戸時代の建造物や堀の遺構が残る貴重な史跡です。
三河一向一揆について
不入特権を与えられていた寺と、三河統一をめざす徳川家康(当時は松平姓)が対立して1563年に起こった戦。
空誓上人が中心となり三河三か寺や三河守護の吉良氏、門徒たちが蜂起。
家康の家臣団に門徒も多く、家臣団が敵味方に分裂するという危機にも陥りましたが、家康自らが出陣したことで戦意喪失の家臣、離反する者も出て、翌年、和睦という形で終結しました。
空誓上人や後に家康の参謀となる本多正信らは国外追放となりましたが、家臣の多くは(夏目吉信、渡辺盛綱など)赦免され、生涯家康に仕えることになりました。
本證寺の境内
本堂
1663年の建造で西三河ではかなり規模の大きいものです。
本堂内にあったポスター「徳川家康と戦った寺」
家康も一歩間違えば、ここでThe endになる危機でした。
しかし一揆方についた家臣たちを許した上に、再び雇用するという寛大さは家臣団の忠誠心につながりました。(三方原の戦いでは夏目吉信が身代わりとなって討死)
同じように一向宗との対立に苦戦した織田信長ですが、伊勢長島の一向一揆(1571-1574)では大量の死者(一説には2万人以上)を出す残酷な黒歴史となりました。
ここが家康と信長の大きな違いです。
鼓楼と内堀
本證寺のシンボルともいえる特徴的な建物。
江戸中期の建造です。
周囲は、堀が巡らされています。堀だけ見ればまるで小さな城郭のようです。
鐘楼と経蔵
境内南側にあり、鐘楼は1703年、経蔵は1823年の建造。
裏門
境内北側にあり、17世紀後半の建造です。
庫裏
寺務所や台所、客殿などを備えた建物。1830年の建造です。
裏門近くからの鼓楼と内堀
思わず近寄って見てしまいましたが、フェイクの鶴でした~(笑)
内堀(南側)
11月末という季節でこんな様子ですが、市民の手によって内堀に蓮を咲かせようというプロジェクトが進行中だそうです。
寺域と外堀
建造物が並ぶエリアはさほど広くはありませんが、かつての寺域は300メートル四方の規模があったそうです。
外堀はほとんどが埋め立てられていて確認することはできません。
今回確認していませんが、境内北側には土塁の遺構も見られるようです。
そして、寺の表門の前は県道が南北に走り、住宅が立ち並びますが、西側に行くとようすが変わります。
境内西側から見る現在の本證寺
御朱印
訪れたのが平日の夕方近くで境内には人の気配がほとんどなく、御朱印授与の案内もなかったのであきらめました。
ドラマの初頭に登場して半年以上。伺うタイミングをすっかり外してしまった感がありました(;'∀')
なお、境内入口の看板では、週末には地元ボランティアガイドによる案内も行われているようですので、このタイミングで行くと、より詳しく理解できると思います。
アクセスと駐車場
境内南西に20台ほどの無料駐車場があります。
(大河ドラマ期間中かもしれませんが)仮設トイレも設置されていました。
公共交通機関利用の場合、名鉄西尾線の南桜井駅が最寄となります。
まとめ
ずっと気になっていた史跡をようやく訪ねることができました。
安城市は(名古屋への通過地点で)鉄道でも車でも立ち寄る機会がなく、じっくり訪ねるのははじめてでした。
今年は大河ドラマの聖地を追っかけ、おおよそ徳川家康の三河~遠江~駿河の人生は網羅したかな・・・というところです。
今、気になっているのは、江戸よりも滞在が長かったといわれる京都の伏見界隈。
そして、大阪の陣のきっかけともなった方広寺です。
京都の混雑が恐ろしくてすぐには行かれませんが、大河ドラマが完結した後も家康公を追っかける旅はまだまだ続きそうです。