2023年5月に訪ねた新城市の史跡めぐり。
設楽原(したらがはら)決戦地の馬防柵近くにある「火縄銃の展示規模日本一」という設楽原歴史資料館のご紹介です。
あわせてすぐ近くにある信玄塚を訪ねたようすもご紹介します。
設楽原歴史史料館について
【住所】愛知県新城市竹広字信玄原552
【営業時間】9:00〜17:00
【定休日】火曜日
【料金】おとな 330円 小中学生 100円(長篠城址史跡保存館との共通券あり)
【Webサイト】新城市設楽原歴史資料館:新城市
駐車場
広い無料駐車場が用意されています。(車でのアクセスをおすすめします)
愛知県ということもありやっぱりトヨタ車率が高いですわ~(そういう私もトヨタ車ご愛用♡です)
駐車場から資料館への途中には馬防柵風なものがあります。
設楽原歴史資料館の建物
資料館の前に立つ銅像は、郷土の偉人 岩瀬忠震(ただなり)氏
幕末の日米修好通商条約調印の立役者となったそうです。
資料館は、長篠設楽原の戦い(火縄銃を中心にした展示)と岩瀬氏の功績展示の2本立てになっています。
設楽原歴史資料館の展示
エントランス
大河ドラマPRポスターも三方ヶ原の戦い後、大きくイメージが変わりましたね。
初期の甲冑姿はこちらの資料館で撮影されているとお聞きしました。
松潤家康は公表されていないものも含め、家康ゆかりの地にかなり足を運んでいますね~
また脱線でした。話を戻します。
資料館は、設楽原の戦いと火縄銃といった戦国時代をテーマにしたものと、ご当地出身の岩瀬忠震という幕末に活躍した幕臣の足跡紹介などとなっています。
日本一の展示数と規模を誇る火縄銃
日本各地のお城で火縄銃や鉄砲の展示はよく見かけますが、これだけ揃っているのは見たことがありません。
ただ、火縄銃に関しては長篠設楽原の戦いで使われたものは現存せず、ほとんどが江戸時代の製造のものだそうです。
しかし、唯一戦国時代に使われたと伝わる銃があるのです。
日本最古の火縄銃「信玄砲」
武田信玄が野田城を攻めた際に、籠城した野田城の家臣がこの火縄銃を武田軍に向けて撃ったと伝わるものです。
真相は謎ですが、この時に信玄が撃たれ、これがもとで亡くなったという伝説もあるそうです。
鉄砲玉については、この周辺で10数個が地元の方によって発見されています。
まだまだ歩けばどこかに埋まっているかも!?
奥平家伝来の具足
長篠城主であった奥平家に伝わる「横矧二枚胴」
もともと武田軍だった奥平信昌が徳川方についたことで形勢は有利になりました。
その軍功で奥平信昌は徳川家康の娘である亀姫を娶りました。
奥平家の子孫は江戸時代に大分県の中津城に転封となり、幕末まで藩主をつとめました。中津の奥平家から寄贈された甲冑が展示されています。
岩瀬忠震展示コーナー
今年は戦国で頭がいっぱいなので、また幕末の大河になったらゆっくり勉強しようと思います(苦笑)
企画展示「しんしろ~家康紀行~」
訪問時は、「しんしろ~家康紀行~」という展示が行われていました。(令和5年7月16日まで)
クイズもあったのですがなかなかレベルが高く、全部解けませんでした~
ということで解答をいただいてきたので、勉強して出直しますっ。
火縄銃もすごいのですが、モノだけの展示ではなく、企画展も充実していて大変みごたえのある資料館でした。
見学所要時間は、じっくりと見ているとあっという間に30~40分たってしまいます。
オリジナルの資料も用意されていて、大変勉強になりました。
夏休みの自由研究にもおすすめしたい資料館です。
この後は徒歩で数分(私は車で行きましたが・・・)にある信玄塚へ。
信玄塚といえば、長野県根羽村にもあります。
甲斐の国に戻る途中に信玄はこのあたりで亡くなったと伝わっています。
双方気になっていたのですが、先に行ったのが遠い方の信玄塚。
根羽村から離れたこの新城になぜ信玄塚?
長篠設楽原の戦いではすでに信玄はこの世にいなかったのになぜ「信玄」?
訪ねてみて疑問がやっと解消されました。
信玄塚
細い路地を入ったところに墓地のような場所がありました。
長篠設楽原の戦いでは、武田軍10000人。織田徳川連合軍5000人という多大な死者を出しました。
この村に住む人たちは徳川家康の命により村の各所に死者を埋葬しました。そのひとつがこの信玄塚と伝わります。
上の写真の右側に見える山が信玄塚(大塚)
大塚には武田軍の死者が葬られています。
いっぽう入口付近にある小塚には織田徳川連合軍の死者が埋葬されていると伝わります。その大きさの違いを見ると、勝敗の差をはっきり感じます。
敷地内には、市の文化財でもある閻魔さまが祀られたお堂もあります。
信玄塚の名の由来
長篠設楽原の戦いに関するお墓なのになぜ信玄?という謎については・・・
戦国最強といわれていた武田信玄の名を冠することで、武田家の終焉を告げる意味を込めて信長が命名したという説があるそうです。
大河ドラマ「どうする家康」の中でも、信長が長篠設楽原の戦いに際して「武田を滅亡させる」ということに対する執念が見てとれました。
アクセスと駐車場
私は資料館から馬防柵、徳川家康陣跡などをぐるりと走ってから向かったのですが、実は資料館から歩いてすぐのところでした。
わざわざこんな細い路地に入らなくても資料館の駐車場から歩いていくのがおすすめのようです。
未舗装の駐車スペースは数台分ありますが、道中ブロック塀でこすらないようにご注意を。